diff --git a/src/content/blog/2024-12-01-i-am-not-a-visual-thinker.mdx b/src/content/blog/2024-12-01-i-am-not-a-visual-thinker.mdx index b2afeac..2400de5 100644 --- a/src/content/blog/2024-12-01-i-am-not-a-visual-thinker.mdx +++ b/src/content/blog/2024-12-01-i-am-not-a-visual-thinker.mdx @@ -138,7 +138,7 @@ twitterCard: summary_large_image 自分の両親の思考タイプはどうだったか。母はたぶん言語思考と物体視覚思考の混合タイプで、よくしゃべるが言葉に厳しく、僕がおかしな日本語を使ったり要領を得ない話をしたりするたびに目ざとく非難した。絵を描くのが得意で製図の仕事をしていた。父は空間視覚思考者で、経理の仕事をしていて、家ではいつもパソコンの前にいた。父とはまともな会話をした記憶がない。母が僕に施した美術的教育は実を結ばなかったが、シビアな言語感覚は受け継がれた。 -これまで僕が仕事をしてきたデザイナーの中には物体視覚思考者が多かったことは想像に難くない。その物体視覚思考者が作り出すものが、言語思考者にとって易しくないものであることは、ごく自然な帰結に思える。要するに、情報取得に伴う認知負荷の度合いが違うのだろう。その大変さを実感できないから話が噛み合わない。 +これまで僕が仕事をしてきたデザイナーの中には物体視覚思考者が多かったことは想像に難くない。その物体視覚思考者が作り出すものが、言語思考者にとって易しくないものであることは、ごく自然な帰結に思える。要するに、情報取得に伴う認知負荷の形が違うのだろう。そうした相手の感覚に覚えがないから齟齬が生じる。 では、UI表現のパターンについて、僕が人一倍厳密に考えてしまうのはなぜだろう。これは空間視覚思考者としての傾向が働いているせいだと解釈できないか。普段から物事を抽象的に捉える癖があり、目に見えるものもパターンで認識しようとする強い意識がある。だからこそ、細微な違いにつまづいて意味を取り違えてしまうことも多い。それがある意味、僕の融通の効かなさを形成している。